お知らせ
築地の今と昔をつなぐ「💡知ろう語ろう築地の歴史プロジェクト」
築地という街には、長い歴史と豊かな文化、そして多くの人々の暮らしがあります。
私たちは、築地の「今」と「昔」を知り、人と人が語り合うことで、この街に息づく歴史や文化を未来へつないでいきたいと考えています。
そんな想いから生まれたのが、『知ろう語ろう築地の歴史プロジェクト』 です。
本プロジェクトでは、歴史的に築地のゆかりのある場所を全7回で紹介します。
今回は4回目となります。
2回目:»こちら「築地ゆかりの浅野家上屋敷跡から見える時代の移ろい」
3回目:»こちら「地ゆかりの芥川龍之介― 両国で交差する歴史」
文学に刻まれた異国の窓口 ― 谷崎潤一郎と築地
1858年(安政5)に、米国総領事ハリスをはじめ、米蘭露英仏の五カ国と大老井伊直弼との間に修好通商条約が結ばれ、日本の七箇所に外国人居留地の設置が決まりました。
その一つとして、明治政府によって、築地鉄砲洲(現・中央区明石町付近)に居留地が設けられました。
芥川龍之介の「点鬼簿」には、長姉が「芝の新銭座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園か何かへ通っていた。」とあり、谷崎潤一郎の「幼少時代」には、築地は「日本人離れのした、異國趣味の西洋館ばかりが並んでゐる一區域であつたが、そこにサンマ―と云ふ英國人の一家が英語の塾を開いてゐた。」
「昭和廿九年一月廿七日の東京新聞の『談話室』の欄に、先日亡くなった河原崎權十郎が「六代目の病人心理」と題して書いてゐる中にサンマ―のことに觸れてゐるから、左にその一節を引用しよう。……あのころ築地にサンマ―という英語の塾があって、そこへ通わされました。
サンマ―には私より先に先代の羽左衛門や梅幸、福助(先代歌右衛門)が行つていましたが、……」と描かれています。
明治政府によってキリスト教禁制が取り除かれると、居留地にはミッション(伝道本部)が集まり、各教派は争うように教会を建て、学校を作って布教・慈善活動を行いました。
前々回にご紹介しましたが、この周辺には、キリスト教主義学校の発祥を記念する碑がいくつも建てられています。
2回目:»こちら「築地ゆかりの浅野家上屋敷跡から見える時代の移ろい」
その他にも、「活字発祥の碑」「東京商工会議所発祥の地」「靴業発祥の地」「指紋研究発祥の地」「電信創業之地」といった碑が建てられていて、築地が明治時代の近代化と密接な関りをもっていたのだと感じさせられます。
オランダの商館医員として1823年(文政6)に長崎に到着したシーボルトは、江戸の蘭学者の指導にも携わり、江戸蘭学発展に貢献しましたが、築地に外国人居留地が開設される10年ほど前には、この地にあった中津藩中屋敷内に、藩命により福沢諭吉が蘭学塾を開いています。
そして、それが現在の慶應義塾の起源になっています。
【📖こぼれ話】
谷崎潤一郎と芥川龍之介は、大正文学の大きな流れの中では、耽美派と新現実主義(新思潮派)という異なる流れの中にいましたが、いくつもの接点あったようで、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の「我」で描かれている「彼の先輩」は、谷崎潤一郎がモデルであろうと考えられています。
そして、谷崎潤一郎と芥川龍之介は、現在、共に巣鴨にある正壽山慈眼寺に埋葬されています。
機会があれば、ぜひ実際の街を歩いてみてください。
明治の文豪の足跡が、きっと新しい築地の歴史の表情を見せてくれるはずです。
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